以前のブログ【一見、難しそうな望みを実現した時の話➋】で、私は他の人よりも能力や実績や学歴が高かったわけではなく、『自分の望みに対する許可力』が高かったのだというお話をしました。
教員になれなかった人になくて私にあったものは、実績でも能力でも学歴でもなくて、その1つは、自分の望みを許可できるかどうかの「許可力」なんです。
一見、難しそうな望みを実現した時の話❷ vol.2
じゃあ、『自分の望みに対する許可力』ってどうやったら手に入れることができるのか?という疑問が湧いてくる人がいるかもしれません。
私には自分の人生に対しての信頼感があったんですね。
もう少し具体的に言うと、「自分がなりたいと思ったら何にでもなれるし、やりたいと思ったことは何でもやれるだろうな」という漠然とした安心感、信頼感、みたいな感覚です。
『漠然とした』という所がポイントで、これは、私が人より能力が高いからとか、何らかの根拠があってそう思っているという意味ではないんです。
自分にそう感じているのと同じく、他の人たちに対しても「その人がなりたいと思ったら何にでもなれるし、やりたいと思ったことは何でもやれる」って感じてるってことなんです。
この感覚があるからこそ、『自分の望みに対する許可』ができるってことなんです。
私自身この感覚が自分にあることを明確に認識してたのは、中学校1年生の時でした。
前回の記事でも言いましたが、「人生のピーク」と私が勝手に呼んでいる時です(笑)。
・・・前回のブログ記事より↓↓↓・・・
「人生のピーク」と私が自分で勝手に呼んでいる中学1年生の頃の私がいます。
その頃の私はどんなのだったかというと、それは確かな感覚なのですが、特別な何か(お金とか地位とか名誉とか能力とか)を所有していたということではなく、感覚(精神的にというか)がこの上なく成熟していた感覚があったんです。
(※これについての具体的な話はまた別の記事でお伝えしようと思います。)この感覚があれば、何だってできるし何にだってなれるって分かっている感じです。
で、これは私が特別なんじゃなくて、誰もが持ってて、誰もがそうあれるということも分かっていました。だから、私は、自分の可能性も信じているし、だからこそ、他人の可能性も信じられるんです。
で、『それを伝えたい』と思いました。
いわゆる逆境、から抜け出した時の話 vol.3
これからの自分の人生の時間を使って。
そう、私が一番伝えたいことって、誰もが『何だってできるし何にだってなれる』ってことなんです。
だから、誰にでも『自分の望みに対する許可力』を高めることはできる。
で、どうやったらそうなれるのかっていうことをお伝えしていきたい。
そのための手段として「中学校の体育の教師」という職業を選択し、実際に実現しました。
そして、もっとピンポイントにこのことを伝えるために、教師をやめて今のスタイルを選択しました。
今回は、まず、中学校1年生の時の私がどんな風に望みを形に変えていたかというお話をしてみたいと思います。
私は小学校4年生の時に友達に誘われてバスケットボールを始めました。
私が入ったそのチームは、3つ上の代まで毎年全国大会に出場している県で一番強いチームでした。
そんなチームだとは入るまで知らなかったし、入ってからも毎年全国大会があって、それには出場するもんなんだなっていう程度の認識でした。
きっと、子どもの感覚なんてそんなもんなんだと思います。
だからさして、強くなりたいとか上手くなりたいとか思ってたわけでもなく、友達に誘われて一緒に遊びに行く感覚で私は通っていました。
むしろ、周りの子たちよりも後から入ったので、みんなは自分よりもっと上手だし、特に運動が得意ではない私はどちらかというと、大して自信があったわけではありませんでした。
だから、小学校を卒業して中学校に入学する時、バレー部に入ろうかと考えてたぐらいです。
その頃、ちょうど女子バレーの世界大会がテレビで放映されていて、日本代表の選手たちがプレイしている姿がカッコ良くて、私もバレーボールを始めてみようかな、そんな感じの動機です。
でも、実際に中学校に入学してどのクラブに入部するかを決めるためのクラブ見学の時間があって、当然、私も含めてミニバス(小学校バスケ)をやっていたメンバーはバスケ部の見学に行くわけです。
そこで衝撃だったのが、ミニバスで一緒にやっていたから見慣れているはずの先輩たちのバスケットをしている姿が、すごく!とても!カッコ良く見えたんですね。
で、思ったのが「この先輩たちに混じってバスケット(試合)ができたらめちゃくちゃ楽しいだろうな」っていうことだったんです。
「思った」と書きましたが、思うというより、「湧いてきた」感じです。
身体の奥底からワクワクの感覚がムクムクと湧きだしてきた感覚です。
それで私はバスケットボール部に入部することに決めました。
ここでまず、お伝えしたいのが、身体の奥底から湧きだしてくるような感覚が出てきたら、もうこっちのもんだということです。
そこからは自分の中から湧き上がってくるワクワクや直感に従えばいいということなんです。
なので、小学校から中学校に進学する時とか、転勤、転職とかっていう、新しい世界が始まるような4月のタイミングって、そういう思いをキャッチしやすいタイミングだと思います。
で、私は「この先輩たちに混じってバスケット(試合)ができたらめちゃくちゃ楽しいだろうな」と思ってバスケ部に入部しましたが、「試合に出られるように頑張ろう!」とは思っていませんでした。
「目標を立てたんだけど上手く形にならない」ということって誰にでもあると思いますが、その時との違いが、きっと、ここに1つ、あるんじゃないかなと思っています。
「この先輩たちに混じってバスケット(試合)ができたらめちゃくちゃ楽しいだろうな」と思った私は、結局、最終的には先輩たちに混じって試合に出るようになっていました。
つまり、望んだことが実際に形になってたんです。
私が何をしていたのかということを1つ1つ順を追ってお話していきたいと思います。
私がやっていたことは、分かりやすく表現すると『ごっこ遊び』なんです。
まず、「この先輩たちに混じってバスケット(試合)ができたらめちゃくちゃ楽しいだろうな」というワクワクが明確になった私は、「そうなるとして・・・」という毎日を過ごしていたんです。
例えば、私が先輩たちに混じって試合に出るとして、この練習をどう取り組むか、どう勉強するか、どう反省するか、どう授業を受けるか、どう人と接するか、何を選択するか、どう毎日の一瞬一瞬を過ごすか、、、ということです。
つまり、「そうなる」ことを前提として毎日を遊んでいたんです。
バスケ部に入部したら、毎日練習の時間があります。
それを、私が先輩に混じって試合に出ているとしたら、このシュートはどの場面でどんな風に起こっていることなのか。
それを想定して1本のシュートを打つ。
そして、大事なのは、「その時に感じられるであろう感覚を同じように味わう」ことなんです。
これ、めちゃくちゃ大事なポイントなんです!!
だって、なんでそれをしたいのかって、その気分を味わいたいからなんですから!
私たちは色々望みを思い描きますが、その望みを手に入れることによって本当に欲しいものって、その時に感じるであろう感覚なんです。
ご自分のことに置き換えて本当にそうなのかどうか、ぜひ一度確認してみてください。
で、話を元に戻すと、試合を想定して毎日の練習に取り組んでいる人は多いと思いますが、その練習の場を本番の試合だと思って味わいながらその場を楽しめている人は多くないと私は踏んでいます。
本番を想定して練習してるはずなのに、本番になると練習通りのパフォーマンスが発揮できないという人は、まず、これを見直してみるべきです。
本番で感じるであろう喜びを十分に練習の時点で味わっていますか、といういこと。
これをやっていれば、毎日の一瞬一瞬が本番なので、本番で緊張することなんてありません。
だって、毎日が本番なんだから。
本番だからと特別なことをしようとする時点で、いつも通りではないんです。
ということは、いつもが本番ではないと認識しているっていうことなんです。
それはもう、試合のための練習ではなく、練習のための練習になっているんです。
それに、毎日が本番と同じ気分・感覚を感じながら毎日を過ごしているということは、毎日「この先輩たちに混じってバスケット(試合)ができてめちゃくちゃ楽しい!」という叶ってほしかった感覚を味わいまくっているということなんです。
これをやっていないとしたら、相当もったいないことです。
あなたは、本番でしかその味わいたかった感覚を味わわないのですか⁉と問いたい。
こうだったら最高!という感覚を、毎日味わいたくないですか⁉
中学校1年生の時の私はこれをやっていたんです。
全てにおいて。
だから、そうなるとこういう境地に至ります。
「叶っても叶わなくても、どっちでも幸せ」
なぜかっていうと、すでに毎日その気分を味わっているからです。
すでにもう、なりたい自分になっているからです。
物質的な現実って、どうやら後から追いついてくるものみたいなんです。
自分の中身がそうなっているから、それに見合った物質的な現実が後から追いついてくる。
「この先輩たちに混じってバスケット(試合)ができたらめちゃくちゃ楽しいだろうな」という望みを抱いてから、毎日すでにそうなっている自分で過ごしていた私に、ある時こんなことが起きました。
- 同じポジションの先輩がケガをして試合に出られなくなってしまった。
- その時同じポジションだった私が呼ばれて試合に出ることになった。
その時の私は、「こんなチャンス、滅多にないから、失敗してもいいから思いっきり楽しんでやろう」と思って試合に出ました。
先輩のケガが治ったら私はまた試合には出ないのだろうと思っていましたが、その先輩が練習に復帰してしばらくたってからも私は試合に出続けていたので、「あれっ、もしかして私はずっとこれからも試合に出るのか?」と思った瞬間がありました。
「いつ、出られなくなるか分からないから、その時その時を思いっきり楽しもう」と思ってやっていたら、気づいたら私は中学1年生で先輩たちに混じって試合に出るレギュラーメンバーになっていたんです。
その時、顧問の先生がどういう意図で私を試合に出すようになったのかは分かりませんし、そんなことは分からなくてもいいことなんです。
「絶対に試合に出てやる!」という強い想いが私にあったわけでもありません。
つまり、夢や望みを叶えるのに、「周囲の環境」や「過去の実績」・「根性」や「悔しい体験」は、あってもいいけど、必ずしも必要不可欠なものではないっていうことなんです。
私が自然と習得した望みの叶え方は、眉間にしわを寄せるような叶え方というよりも、喜びに満ちた叶え方だったんです。
「ごっこ遊び」をしていたらそのうちに望みは叶っていく、ということを私は体感しました。
「人はなりたいと思ったら何にでもなれるし、やりたいと思ったことは何でもやれるんだな」という漠然とした安心感、信頼感は、こんな風にして自然と私の中に生まれていったんです。
私は、教師になってみて、客観的に他人を観察するという機会が増えました。
これは生徒たちだけでなく、大人の人たちも含めてです。
人と比べてみて初めて、自分と他人との違いが見えてきます。
そこで感じたことの1つは、「きっとこの望みの叶え方を知らない人が多い」ということです。
中学1年生の頃の私が自然と身につけていった望みの叶え方には、実はまだまだ細かいポイントがあるんです。
私の実体験を通してお伝えできること、これからもブログに書いていきたいと思います。
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