ちょっと待って!「私ならばこう思うから、他の人も同じように感じるに違いない」ってホントですか?

同じ場所で、同じ時間に、同じ人たちと、同じ映画を観たとしても、その映画をどのように感じたかは一人ひとり違います。

面白かったと感じた人もいれば、つまらないと感じた人もいるし、ストーリーに共感できると感じた人もいれば、全く自分の感覚とは違うと感じた人もいる・・・。

これは、私たちが生きている現実の世界でも同じことです。

同じ家庭で同じ親から育った兄弟であっても家族や家庭に対する感じ方は違うし、同じ学校で同じ環境で過ごしている同級生であってもそれぞれ一人ひとりの学校という世界の捉え方は違います。

それと同じように、同じ場所で同じ出来事を体験したとしても、その体験を通して一人ひとりの中に経験として残っているものは違うのです。

このことは、当たり前のことのようで、私たちの多くが見落としていることでもあります。ある出来事が起こった時、「私ならばこう思うから、他の人も同じように感じるに違いない」と思ってしまいがちです。

「私ならばこう思う」は、その人が自分自身のことをどのように捉えているか、自分を取り囲んでいる世界をどのように捉えているか、ということで違ってきます。

例えば、「自分には能力がない、自信がない・・・だから、自分が何か失敗してしまったら周りの人から馬鹿にされてしまう」という風に捉えている人が、自分の子どもを見る目は「自分と同じように能力のない子」として見てしまいがちです。だから、その子自身の持っている力を信じられず、常に心配になってしまう・・・。

そして、「何か失敗した時には解決できずにとんでもないことになってしまうのではないか」と無意識に感じていると、失敗しないようにと「そんなことしてはいけない」「そんなこともできないようではいけない」「こうしなさい、ああしなさい」・・・とそれを言うことがこの子のためだ、心配してあれこれすることがこの子のためだ、と信じて疑わないということが起こります。

つまり、「心配になる」ということは、良いことをしているように捉えがちですが、その相手自身の力を信じていないという場合もあります。それでは、相手からすると、窮屈でたまらないでしょう・・・。

相手が捉えているその人自身の姿は自分の捉え方と同じではないし、相手の見ている世界は自分の見ている世界とは違っているのです。

逆のことを想像してみると分かりやすいかもしれません。

相手の力を信じている場合(自分の憧れの人など)、「何があったとしても、この人なら何とかするだろう」「自分が言わなくても当然考えているだろう」と、例え、自分自身の感じ方や価値観と違ったとしても、信じて見守ることができるでしょう。状況や周りの環境によらず、その人自身の力を信じられる、ということです。

 

ただ、無理やり「信じよう認めよう」と思って頑張ったとしても、残念ながら上手くはいかないでしょう。

なぜなら、本音では、認められないし信じられないからです。

もし、無理なく心から相手を信じられるようになりたいのであれば、まずは自分自身のことを無理なく心から認め、信じられるようになることから始めるといいですね。これも、「自分を信じなければならない、認めなければならない!」と無理に思い込もうとしても、きっと上手くいかないでしょう。なぜなら、そう思えない理由があって、そう思わないでいることに自分自身がメリットを感じているからです。

その理由とメリットは、自分自身が気づかないように意識の奥深くにしまいこんでいるはずです。だから、なかなか自分で見つけることは難しいとは思いますが、それができて一つ一つ解決を進めていくと自分への信頼度も他者への信頼度も上がってきます。

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