人の評価は的確、とは限らない

自分自身を、あるいは自分のしていることや考えていることを、他人に評価をされた時、私たちは嬉しく感じるものです。

でも、その一方で、評価をしない人がいたり、また別の評価をする人もいたりするものです。

人は、一体、どんな基準で評価をしているのでしょうか。

例えば、私たちは普段、何も考えずにいると、このように捉えています。

勉強はできないよりできた方がすごい。

学歴は高い方がすごい。

走るのが遅いより速い方がすごい。

お金は持っていないことよりたくさん持っていることの方がすごい。

絵は上手な方がすごい。

歌はうまい方がすごい。

技術がある方がすごい。

暗いより明るい方が良い。

すぐに投げ出してしまうことより我慢強い方が良い。などなど・・・。

これらは、誰がどのような基準で決めたのでしょうか。

上記のような一般的に良いとされていることは、別の側面においては、何のメリットもないことであったり、逆に邪魔になることもあります。そして、それらはその人自身の存在価値とは何ら関係のない事柄です。

勉強が得意な人と勉強が苦手な人の人間としての価値は、同等に尊いものです。お金がなくて困っている人と、お金が有り余るほどあって悠々自適に暮らしている人との人間としての価値は、同等に尊いものです。そのこと自体を良いことか悪いことかは、実は人間が勝手に決めていることなのです。

その社会において、何を良しとして何を都合の悪いことと捉えるかは、どれだけたくさんの人が同じように感じているかということで決まっています。それが、『一般常識』として世の中で認識されていることとなります。

そして、自分の所属している集団や社会によって、何が良くてどんなことが優れているとされるのかという常識は変わっていきます。昔の日本社会の常識と今の日本社会の常識、また、世界の別の国の常識と日本の常識を比べてみても、良いとされていることや優れていることの基準は、「違っている」ことが容易に想像できるでしょう。

だから、人がする『評価』というのは、その人がどんな社会でどんな常識の中で生きてきたかや、自分の中で何を大事にしているのかという価値観で変わってくる、あいまいなものであるのです。

その「生きてきた世界の社会常識」や「価値観」が自分と違っているのであれば、当然評価の基準は自分とは異なるわけです。そしてまた、同じ『良い』という評価をしていたとしても、細かくその評価の理由を紐解いていけばそれぞれ違った基準を持っています。

ですので、他者の評価を基準に、むやみに振り回されて自分自信が左右されてしまうことは、自分の向かっている場所にたどり着けるかどうかをあいまいにしてしまいます。

評価をすることが悪いということではありません。良い評価を受けることは喜ばしいことですし、力になります。

しかし、自分の言動の本質を、相手がきちんと見極められているのかどうかは定かではありません。自分の意図を相手が正確にくみ取れていない時、相手はあなたを正しく評価することはできないでしょう。

他人の評価を必要以上に気にすることには、あまり意味はありません。

それよりも、他者から評価をされなかったとしても、自分の行いに自分自身で意義を感じられているかどうかということの方がよっぽど重要なことでしょう。

良い評価を得られなかった、または、批判を受けた時、それを聞き入れ自分の糧にするのか、聞き入れずに自分の行いや意図を変えることなく信じて突き詰めていくのか、どちらが今のあなたにとって最適なのかは、他の誰でもなくあなた自身にしか分かりません。

あなたの本質を見極められるのは、あなた自身です。その見極められる目を、あなたが持ち合わせていることがそれには必要です。『自分の一番の味方は自分自身』でいてあげることが、自分の力や魅力、持ち味を生かせる早道です。

しかし、それでもあなたが他者の評価が気になって仕方がない、プレッシャーになる、評価をされなかったらひどく落ち込んでしまって前に進めない・・・というのであれば、自分自身よりも他者の思いや意見を優先してしまう理由があるのかもしれません。なぜそうする必要があるのかを探ってみると、そこから抜け出すヒントが隠れていることでしょう。それを解決していくことが、自分を信頼することの第一歩になります。ご自身の見えていない声に耳を傾けてあげてください。自分自身の目で見極めることが、自分のした選択の的確な評価となるでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA