『自分を変えない』勇気

私の中には、基本的に人に優劣をつけるという感覚があまりないのです。(多少はあります)

トップアスリートも素人も、学歴の高い人も勉強が苦手な人も、複雑な家庭で育った人も両親の愛を一身に受けて育った人も、定職についている人もそうでない人も、有名人も一般人も、学校に通えていない人も毎日楽しく学校生活を送っている人も、お金のある人もない人も、健康な人も病気を抱えている人も、障害のある人もそうでない人も、年上の人も年下の人も、男も女も、太っている人も痩せている人も、同性愛者もそうでない人も、何かができる人もそれをできていない人も・・・、私の中では、どちらが上でどちらが下という感覚ではなく、フラットな横並びなのです。

そして、自分自身もそれらの上でも下でもなく、横並びにいるという感覚です。もちろん、好き嫌いや苦手な人はいます。しかし、私が好きか嫌いかということと、その人の存在価値とは全く関係のないことです。

この感覚は、季節に対しての見方に似ているかもしれません。

寒い冬は嫌いですが、暖かい夏より劣っているということではありません。春は心地よくて好きですが、冬より優れているということではありません。

一見、その感覚は良いことのように見えますが、そんな私の存在を心地良いと感じる人もいれば、不快に感じる人もいるのです。

なぜなら、「人の上に人を作らず」と言いながらも、実際の社会は人の価値に優劣をつける感覚が一般的な感覚になっているからです。ある人の中では、他の人と同等に扱われることは不快なことなのです。

例えば、自分を特別な人として扱ってもらいたい、すごい人だと思われたい、称賛されたい、という人にとっては私の態度は望んでいるものより物足りないかもしれません。しかし、私の中で決して馬鹿にしたり見下しているのではなく、その人が私にはできない素晴らしいことをやっていたとしても、不思議に思わないということなのです。その人にはその力があって当然だろうという感覚なのです。

ですが、これまでに自分の意図しないところで相手が不快に感じているという体験を何度もしてきました。その都度、振り返ってよくよく考えてみても、私の何が悪かったのか全く分からないのです。分からないけれど、人が不機嫌になることは私にとってとても嫌なことだったのです。

だから、自分を変えることによって人が機嫌を損ねないのであれば、その方が私にとっては都合が良かったのです。そして、自分の中の何がいけないのかを常に探すくせがつきました。

だけど、自分の中に問題を探しても見つかるわけがありません。だって、相手が機嫌を損ねるのは相手の中の問題だったからです。私に対して感じている不快さの正体は、相手が持っている『恐れ』だからです。

こんな風にして、自分の中の恐れから身を守るために無意識に他者を攻撃するということは、あちらこちらで日常茶飯事に起こっています。そして、『恐れ』のない人間などいないので、私がどれだけ自分の振る舞いを変えようとも、必ずどこかでまた私に対して不快に感じる人は出てくるのです。

私の問題は、「他人を不快にさせてしまう何かがある」ことではなく、「不快に感じている人に反応してしまう」ということだったのです。気にしなければ良かったのです。でも、気にせずにはいられなかったのです。その理由は、私の中の『恐れ』です。

そのことに関わって私が最も恐れていたことは、「自分のやりたいことを、自分のやりたいようにできなくなる」ことでした。私の意識の中では、「他者が不機嫌になる」ことと「やりたいことをやりたいようにできなくなる」ことがつながっていたのです。だから、気にしないわけにはいかなかったのです。きっと、誰かに「そんなの気にしなくていいよ」と言われたとしても、そういう訳にはいかなかいのです。

そして、やりたいことがやりたいようにできなくなることよりも、自分を変えることの方が私にとってはましだったのです。

逆に言うと、自分を変えないで、「ありのままをさらけ出す」ということは恐いことだったのです。「本当の自分でいると、相手が訳の分からないことで機嫌が悪くなって、厄介なことになる」というイメージが出来上がってしまっていました。

こんな風にして、自分を出せないままでは、自分の本来の力を発揮できるはずがありません。私の中の恐れが自分の可能性を制限させていたのです。

また、そんな自分の中の問題が解決されていないまま大人になった私は、生徒に接する時にも同じイメージを抱いた状態で接することになります。そうすると、そのことが、生徒の可能性を制限させてしまうことにつながってしまう恐れがあるのです。もちろん、全ての生徒がそうなるわけではありません。私の解決されていない問題に反応してしまう何かを持っている生徒はそれに反応してしまうのです。

それは、同時に、本来自分のやりたかったこと、「子どもたちの可能性を発揮させる」ということを妨げるものなってしまっているのです。

このようにして、問題の連鎖は起こっています。親から子どもへ、指導者から選手へ、教師から生徒へ、・・・。子ども同士の中でも起こっています。特別なことではなく、日常的にあらゆるところで起こっているのです。問題や恐れを抱えていない人間など、いないのです。

しかし、『どんな人が自分の周りにいようと、どんな環境に置かれていようと、本来の自分を発揮することはできる、その方法がある』ということを知っていてほしいのです。

また、子どもたちに関わる私たち大人は、その素晴らしい可能性を制限してしまわないためにも、まずは自分自身の内面に向き合うことが大切であると感じています。

私は自分の中の問題に気づき、それを解決できたことで、自分自身を偽る必要性が一つなくなりました。今までは無意識にためらっていたことが、制限から解き放たれ、不安を感じずに、これまでよりも自由に自分を表現することができると感じています。そしてこんな風に、自分の中にこんな恐れがあって、それが自分の可能性を制限させてしまっているということは、どれだけ頭で考えても分かりませんでした。何十年と分からなかった私が、このことに気づくことができて解決することができたのは、トレーニングを積み重ねたからです。

トレーニングを重ねていくと、起こっている出来事を通常の私たちの視点よりもさらに客観的に捉えることができます。そして、その視点では偏ることなく中立に観ることができます。私は、このテクニックを身につけたことは、自分の人生の心強い味方を手に入れることができたと感じています。自分を変えるのではなく、自分の中の意識が変わることで世の中の見え方や関係性は変化します。その結果、これまでの自分とは違ってくるという状況が自然に生まれます。

『自分を変えない勇気』を持つことが、あなたの人生が前に動き出すきっかけになるかもしれません。たくさんの方々が自分の可能性を発揮し、人生を楽しまれることを願っています。

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